最上義光の戦略眼を狂わした一つは、越後村上と出羽庄内を結ぶ往還路(出羽道)にあったのかもしれない。わけて沿海道は悪路であったがゆえに、砦などの防禦施設は必要としなかった。片や山通りの道はいくつもの小さな峠があり、国境いにの小国、温海、五十川、関根などには城が置かれていた。
なかでも関根城は鬼坂峠の北麓にあり、越後道の咽喉にあたっていたので、戦略的にも重視されていた。最上の軍目付・中山玄蕃が城将となり、本庄勢に備えたゆえんである。関根を突破すれば、沃野の彼方には大浦城が小高い丘陵の上に望まれ、その手前には十五里原や、出丸の新山森がかすんで見える。
当然ながら、本庄の攻撃目標は関根城だ。先駆け功名を争うのは応募浪人か、仲左門(のち庄内酒井家臣)は、原田右京と名乗る者と共に曲輪をうち破り、初首を取った。また大手門へ真っ先駆けて攻め入り、柵を越えて放火して回り、その勢いで新山森まで攻め込み、本丸ばかりにした。そのとき鉄砲で胸を撃たれたが命に別状はなかった。
門田造酒亟と名乗る浪人も、関根を攻めたとき敵の首級をあげた、と記している。大嶋市之亟は、関根で高名をあげ、証拠人は五十嵐新兵衛であるといっている。本庄勢の攻撃は凄まじく、城将・中山玄蕃は敢えなく討死して落城してしまった。
この緒戦での彼我の損害は不明であるが、本庄方の一方的な勝利であったようだ。その勢いに乗じて、一気に庄内平野を西上して小中村まで攻め込んだ。そこは大宝寺(のち鶴岡)と大浦のほぼ中間のところで、決戦場に想定する十五里原は至近である。もはや、そこまで本庄勢の侵入を許してしまった東禅寺筑前である。あとは一歩も退けない。
その前後して、沿海を通り大浦城の搦手へ別働隊が到着した。そこで本庄が採った作戦は、奇襲によって東禅寺勢を潰滅させること。それには払暁、敵の千安中野の本陣を突き崩す。それも首級を挙げず、一気呵成に追いあげ、大浦城も攻め落とすことである。
折しも山形から救援隊が組織されて川北の来きすぎ次の居城観音寺に進攻する。これが逸早く報(し)れるところとなったか、遭遇戦のようになったものの、最上勢は空しく敗れ、隊将・氏家は討死、騎馬侍17騎、雑兵150~160人が打ち捨てられた。
また、東禅寺城へも加勢の一隊があったものの、その隊長も討死をとげ、35人が路傍の露となった。これらの情報を告げているのは由利十二頭の一人・岩屋朝盛である。庄内衆に背かれた最上方にとっては切歯扼腕すれども敗北続きである。起死回生は本隊の決戦にかけるのみである。
※当時、火縄銃の有効射距離はおよそ100メートルであった
大場喜代司
『村上商工会議所ニュース』(2017年5月号掲載)村上市史異聞 より