はじめに
本稿(むらかみ商工会議所ニュース「村上市史異聞」の転載)を長年にわたりご執筆くださった、村上市の郷土史研究家・大場喜代司[おおば-きよし]さんが2024年3月にご逝去されました。
「昔のことせ! ~村上むかし語り~」の更新は今回が最後になります。
村上の郷土史に多大な功績を残し、毎月更新される本稿では、明朗闊達[かったつ]な文章で私たちを楽しませてくれた大場先生に心から感謝を申し上げ、ご冥福をお祈りいたします。
以下より本編です。
歴代内藤侯墓碑(光徳寺)
村上藩の指揮官・鳥居三十郎はじめ、約200名の戦士が家族ともども帰郷し、城下が活況を取り戻したと思いきや、与太*がかかった官軍兵士はいまだ城下をうろついていた。
*役立たずでまともでないこと
町民の中には、官軍の与太兵をよほど腹に据えかねたか、戦死した官軍兵の柩[ひつぎ]を足蹴[あしげ]にした大工がいた。大工は「問答無用」即刻、斬首にされた。
暗鬱[あんうつ]の毎日だった。突如、羽黒口の一角から赤黒い無言の叫びがくぐもり伏した。村上内藤藩の重臣・江坂与兵衛が暗殺されたのである。与兵衛の寓居*は光徳寺の付近であった。
*仮住まい
羽黒門跡
https://www.sake3.com/spot/3813
常照山法善院 光徳寺
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江坂与兵衛は、旧藩主・内藤信親[のぶちか]からも能吏[のうり]*として嘱望されていた重臣であった。彼が最も重視した藩政は、新田開発による財政の強化と軍政の改革で、旧体制に固執する藩士からは最も忌み嫌われる主張であった。下手人は不明である。
*事務処理に優れた役人
村上城下に進駐の官軍は、名誉にかけて犯人の摘発を命じた。しかし、一向にその下手人らしい者は分からない。「一人の犯行ではなく、2・3人の犯行らしい」とのうわさがたった。
不安を残し、騒然たるその年も暮れ、門松もまばらについたその正月、蒼然の唇をわななかした一婦人が民生局の門に佇んだ。藩士・島田鉄也の母親だった。「息子は今朝、切腹 ……あい果てました」と言って、袷[あわせ]の襟元から鉄也の遺書を取り出した。それによると、江坂与兵衛は亡国の輩だから誅殺[ちゅうさつ]を加えた、とあった。
幕藩政治の旧弊と閉鎖社会の身分制の落とし子が江坂と島田であったともいえよう。藩主・信民の死*もまた行政組織の歪みの果てであったか。哀惜哀惜。いや、もう一人。藩の責任を一身に負わされて、若干29歳で斬首された家老・鳥居三十郎も悲運の一人だった。
*奥羽列藩同盟に参加した村上藩が危機に陥ると失意のうちに自害(享年19)した
藩主・内藤信親は、江戸開城後の留守を任されたゆえ帰国が遅れ、戊辰戦争も終結してからようやっと帰藩した。旧弊の権化たる城郭は解体処分の先頭であった。明治8(1875)年から城山山上・山下のことごとくの城門や櫓など、すべて取り壊され、松風のみの虚風を奏でる山となっていた。
【この項終】
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2023年8月号掲載)村上市史異聞 より