たび重なる敗け戦に御館城内には不景気風が流れはじめた。この不景気風を振い除けて景気風に変えなければ、日和見の国人衆らは、ますます離れよう、という観測から古志十郎景信に総指揮を執らせて挑む合戦を企画したのか、それとも景勝方が御館の城攻めを敢行し、一気に雌雄を決しようとしたものか。
両陣が激突した大場口は御館の大手にあたり、居多(こた)浜口は搦手口にあたるから、いずれが破れても景虎方は重大な損害を受ける。景勝方にしても、この両口が景虎方に陥ちたならば、春日山城下は景虎方の兵馬に蹂躙されるおそれは充分にある。それと共に小田原の北条も越後侵略の機が熟したと北上を開始しよう。
このとき甲斐の武田勝頼はいかに。勝頼は北条氏政の娘を妻にして、同盟を結んでいる。その一方、勝頼の妹菊を上杉景勝の妻に送り同盟関係にある。これを閨房(夫婦の寝室)外交という。しかしこのとき武田も北条も関東を出陣したことはしたが、信濃や上野あたりで傍観をきめこんでいた。
そのうち景勝方と景虎方間で戦闘が開始された。景虎陣営の居多浜には山本寺定長を将とし、大場口は上杉十郎景信を将とする。景勝陣営は居多浜に上条政繁、大場口に山浦国清をあてている。両軍とも堂々の野戦を展開する構えである。戦端は天正六年六月十日の早朝であったという。居多浜・大場両口とともにほとんど同時に火蓋を切ったか。
景勝方は兵力を大場口に多く集中させたか。上杉景信を葬ることが勝利に直結すると判断したか。とにもかくにも景信に集中攻撃をかけたようだ。間もなく景信の戦死が伝えられた。山浦に対戦した北条(きたじょう)兄弟も敗死した。
戦局は明らかに景勝方に傾いた。ここで武田勝頼が仲裁に乗りだしたか、武田勢はこの前、北信濃に駐屯して情勢を観測していたようであったが、一歩前進、六月二十二日には長沼に着陣し、さらに藤巻原(上越市高田)に前進した。
片や上州の北条軍は沼田を経て猿ヶ京に達していた。ところ武田勢は小出雲(上越市新井)に後退したのである。また北条軍も猿ヶ京から引き揚げるようすだ。武田勝頼も北条氏照も両陣からの要請で、出陣はしたが見せかけである。武田勝頼は、景勝と景虎の仲を修復したいが、直接自身がのりだすのではなく、本庄繁長にその任を委ねた。勝頼が景勝の旗本山吉掃部助らに宛た書状にいわく、
「弥次郎(繁長)とは鴻鯉(こうり)」の仲で懇意であった。「いよいよ疎略なきこと喜悦たるべく候」とある。
果して、繁長はどのような行動にでたか、明らかにする史料はない。
大場喜代司
『村上商工会議所ニュース』(2016年9月号掲載)村上市史異聞 より